もうすでに、今年の紅白歌合戦は終わっている。

11月24日、紅白歌合戦の出場者が発表された。

 

毎年、誰が出なくなった、初出場は誰だと大いに話題になるが、

今年の一番のニュースは、31年連続で出場していた和田アキ子の名前が無かったことだ。

 

和田アキ子についてはかねてから、

「ヒット曲もないのに出るな」

「大物面してみっともない」

「同じ曲を使いまわすな」

といった批判が上がっていた。

 

簡単に言えば、もう和田アキ子を紅白で見たくない、という人が一定数いた。

その数がいかほどかはわからないが、”良くも悪くも変わらない紅白”の象徴

であったことは否定できないだろう。

 

その不満がたまりにたまっていたのか、和田アキ子落選の一報は

例年の出場者発表のニュースに増して世間を賑わせた。

発表の日の朝、東京は観測史上初となる11月の積雪に見舞われたが、

ツイッターでは「雪」とともに「和田アキ子」がトレンド入りしたほどだ。

 

ここで「和田アキ子は紅白に出るべきか」を論じるつもりはない。

和田アキ子が出るか出ないかでここまで盛り上がるのはなぜか、

紅白歌合戦とは、私達日本人にとって一体なんなのかを考えてみたい。

 

 

 

平成に入ってからの紅白歌合戦の歴史は、

NHKと視聴率低下」との戦いの歴史であると言っていい。

 

全盛期には80%を超えていた紅白歌合戦の視聴率は、

平成元年に初めて50%を割る47.0%を記録。

それ以降は50%前後を推移するものの、徐々に下がり続け、

ここ数年は40%を超えるかどうか。昨年の視聴率は39.2%である。

 

視聴率、という物差しで測るならば紅白歌合戦は緩やかに落ちていく斜陽番組だ。

 

しかしそれでもなお、「紅白歌合戦に誰が出るのか」のニュースバリューは損なわれることはない。

ワイドショー番組はもちろん、新聞やネットメディアでもトップのひとつとして扱われ、

世間の人たちも大いに話のタネにする。

 

最近だけ見ても、北島三郎の卒業宣言や、小林幸子の落選などが

世間を騒がせたことは記憶に新しい。

 

なぜそこまで「誰が紅白歌合戦に出るか」が注目されるのか。

 

それは、紅白歌合戦が年の瀬を締めくくる国民的歌番組だからではなく、

日本の音楽関係者や芸能事務所の一年の通信簿にほかならないからだ。

 

大手と呼ばれる各芸能事務所のパワーバランスや

レコード会社社員の営業能力、各団体のNHKへの貢献度…

そのすべてが出場者一覧という一枚の紙に凝縮されている。

 

私達はその一枚の紙から、マネージャーによるNHK幹部への接待風景や、

NHKのプロデューサーの大物ミュージシャンへの必死の交渉のさまを

妄想して楽しむのである。本当にそれが存在するかどうかは別にして。

 

松本人志は2001年、紅白歌合戦の出場が決まったとき

NHKの幹部から「この度はおめでとうございます」と言われたという。

松本は「『ありがとうございます』ではないのか」と憤ったというが、

これこそまさに、紅白歌合戦がひとつの通信簿であると

NHK側も認めていることの現れではないか。

 

 

きっと今頃、本番に向けスタッフたちは演出方法に頭をひねり、

アーティストたちはボイストレーニングダンスレッスンに励んでいることだろう。

 

しかし、なにも心配することはない。

出場者発表をすませた紅白歌合戦は、すでにピークを終えている。

歌など聞かぬ政治評論家たちに消費しつくされている。

 

大晦日に放送される長いショーは、宴のあとの余興にすぎない。

いい年をした大人が、おせちについて美味い不味いを論じることがないように、

紅白歌合戦が面白いかどうかなんて誰も気にしていないのだ。

 

しかしそれこそが、紅白歌合戦が存在する価値なのかもしれない。

アーティストたちにとって、日々のしがらみや外野のヤジを気にせず歌うことができる

年に一度の稀有な舞台なのだから。